金津まつり

KANAZU FESTIVAL HISTORY

金津祭りとは

平安時代から受け継がれてきた金津まつり。
山車巡行や本陣飾り物など、地域に根ざした文化と熱気が今も息づいています。

SECTION 01

金津まつりの歴史

金津まつりの始まりは、平安時代後期の1156年、第77代後白河天皇の勅使中納言時実卿と 興福寺の宗徒等が神輿のお供をして下向になり、神輿を金津神社に寄付なされたことに始まると伝えられています。 春秋の祭典には天下泰平国家豊穣を祈祷して郷中16ヶ村へ神輿渡御されました。

戦国時代には、1575年に織田信長により金津神社の社領は没収され、社殿をはじめ神輿・神宝などが消失しました。 その後、1707年に氏子により社殿・拝殿が再興され、1748年には福井藩主より寄進があり、神輿の渡御が行われるようになりました。

1854年には神輿が新調され、1897年(明治30年)には社殿を修復するとともに境内を拡張。 これを期に山車の巡行が始まり、町内巡行が年中行事となりました。

本陣飾り物については江戸時代初期に始まったとされています。 明治の中頃に復活し、現在に引き継がれています。

金津まつりは、あわら市金津地区25行政区のうち、金津市街地内の18地区が主体となって実施されてきましたが、 2014年より25地区のほか各種団体とともに組織した金津祭保存会が運営主体となって実施しています。 また、太鼓や祭囃子のステージ「響宴」も祭を盛り上げており、 2016年5月に金津まつりは「あわら市無形民俗文化財」の指定を受けました。

SECTION 02

山車説明

毎年3基の山車が各区の本陣を巡行します。16地区が3つのブロックに分かれて当番制で行っています。 人形山車の高さは約6mあります。お囃子は、基本的に子供太鼓2人、三味線2人、笛鉦2人で行います。

太鼓の配置は、両サイドに締め太鼓2個、中央に平太鼓1個です。 曲目は八千もの場をさらえた行き囃子・戻り囃子と帰り囃子の計3曲を演奏しますが、 区によっては万年囃子で決まっているところもあります。

山車行列順番

神輿 → 花車 → 前囃子屋台 → 山車

金津まつりのこの順番形態は全国的に見ても珍しいものです。 本来、多くの神社の祭は山車や鉾により道を清め、そのあとに神様が乗った御輿(神輿)が練り歩きます。

花車・前囃子

昔は別々の屋台でしたが、昭和53年頃に花車と前囃子屋台が合体し、昭和60年古区を最後に花車はなくなりました。 今でも前囃子屋台の屋根や周囲に花を飾るのはその名残といえます。

この屋台は前囃子というように、昔は年団が囃子を演奏していましたが、最近では和太鼓(曲太鼓)が主流となっています。 前囃台は昔、「底抜け」といって床のない屋台と一緒に歩きながら演奏しました。 現在はトラックの荷台をきれいに飾り付け、和太鼓を演奏しています。

子ども踊り

1934年頃より子ども踊りが始まりました。各本陣にて踊ります。 当初は民謡踊りが多かったようです。金津音頭ができた当時は、各区とも金津音頭を踊りました。 最近は踊りの形態もいろいろ変わってきています。 また、少子化の影響もあり、小さい子ども達も参加するようになりました。

SECTION 03

本陣飾り物の歴史

時は江戸時代、福井藩主が細呂木に関所を設け、1613年(慶長18年)には金津に奉行所を置き、 北陸街道の要所として重要な位置にあったことから、宿場町・商業の町として栄え、 毎年7月に入ると日替りで市がたつほど大変賑わいを見せていました。

本陣飾り物が始まったのは江戸時代初期と伝えられていて、 参勤交代の殿様や役人が泊まる本陣に、箸や食器などの日常用品で飾り物を作り、労をねぎらっていました。 材料は各家庭にある什器・備品などの入手しやすいものを持ち寄って使用し、 飾り物を壊しても再度使えることが基本ルールとなっています。

この長い歴史を持つ「本陣飾り物」を、昭和35年にあわら市商工会(旧金津町商工会)が 地域振興事業の一環と位置づけてコンクールを実施しています。

金津は宿場町として商業が栄え大変裕福な町であったことから、 飾り物の製作や鑑賞を楽しむ名残が今日の「本陣飾り物」の基礎を築いたといわれています。